2008年 09月 18日
グリーングリーン |
おはようございます。
こちら三浦半島横須賀市西側、今日は朝からしっぽり雨に包まれております。
窓を開けて雨音を聞きながら、PCの前に座ってこうして日記を書いております。
肌に感じられる湿度はかなり高い。
今日は洗濯物が乾かないこと間違いない。
幼子二人もちの家庭としては、雨降りが続くと洗濯物が溜まるのが、なんともせつないです。
さてさて、娘のブログでUAの「うたううあ」というCDのことに触れています。その中に収録されている一曲である「グリーングリーン」という曲、私も幼い頃学校で習った曲なんだけど、こうして大人になって改めて聞いてみて、その意味深な歌詞とそれに相反しての明るい曲調のギャップの収まりが気持ち悪くて、「グリーングリーン」について調べてみました。
調べた内容を要約すると、
〇「グリーングリーン」は通常歌われているのは3番までだけど、実は7番まで歌詞
がある。
〇原曲は1963年リリース、アメリカのポップスで「ニュー・クリスティ・ミンストレルズ」による 『Green Green』 である。
〇アメリカ版を日本語版「グリーングリーン」として日本語の歌詞を作詞した片岡氏、作詞する際、ママをパパに替えたりと、独自の解釈を加えて作詞していた。
〇都市伝説的な解釈
では、日本語版の『グリーングリーン』における「パパ」は、
歌詞5番の中にもあるように、
5 その朝
パパは出かけた 遠い旅路へ
二度と 帰って来ないと
ラララ ぼくにもわかった
※※※※※※※※※※※※
以下省略
おそらく、何らかの戦いに召集されて、そして命を落とすのであろう父親の姿が投射されたものであると、考えられる。
などなどアメリカ版、日本語版ともども、それぞれの時代背景も重ねて歌詞に思いをはせると、
別のものが見えてきて、興味深いものがある。
でもでも、日本語版での歌詞がもつ深~いテーマというか深すぎるテーマにもかかららず、メロディはいたって軽快。
私はその間にあるギャップの気持ち悪さに、どうしてもどうしてもなじめない。
そこに、原曲(自分主体)と日本語版(自分と父親との関係)との、作詞する立ち位置からの違和感を感じずにはいられない。
アメリカ版の歌詞を意訳したものを読むと、もう少し明るいというか、もっと自分本位というか、
歌詞とメロディにそれほどずれを感じないんだけど
日本語版となると、歌詞が暗く感じられるというか、暗すぎるというか・・・・、片岡氏がその感覚を狙っていたとしたら、それはそれですごいものがあると思う。
どんな残りかたにせよ、確実に心には残っていまもの。
でもこういうすっきりしない類の心への残りかたも、一つや二人は必要なのかもしれませんね。
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調べた内容を要約すると、
〇「グリーングリーン」は通常歌われているのは3番までだけど、実は7番まで歌詞
がある。
〇原曲は1963年リリース、アメリカのポップスで「ニュー・クリスティ・ミンストレルズ」による 『Green Green』 である。
〇アメリカ版を日本語版「グリーングリーン」として日本語の歌詞を作詞した片岡氏、作詞する際、ママをパパに替えたりと、独自の解釈を加えて作詞していた。
〇都市伝説的な解釈
では、日本語版の『グリーングリーン』における「パパ」は、
歌詞5番の中にもあるように、
5 その朝
パパは出かけた 遠い旅路へ
二度と 帰って来ないと
ラララ ぼくにもわかった
※※※※※※※※※※※※
以下省略
おそらく、何らかの戦いに召集されて、そして命を落とすのであろう父親の姿が投射されたものであると、考えられる。
などなどアメリカ版、日本語版ともども、それぞれの時代背景も重ねて歌詞に思いをはせると、
別のものが見えてきて、興味深いものがある。
でもでも、日本語版での歌詞がもつ深~いテーマというか深すぎるテーマにもかかららず、メロディはいたって軽快。
私はその間にあるギャップの気持ち悪さに、どうしてもどうしてもなじめない。
そこに、原曲(自分主体)と日本語版(自分と父親との関係)との、作詞する立ち位置からの違和感を感じずにはいられない。
アメリカ版の歌詞を意訳したものを読むと、もう少し明るいというか、もっと自分本位というか、
歌詞とメロディにそれほどずれを感じないんだけど
日本語版となると、歌詞が暗く感じられるというか、暗すぎるというか・・・・、片岡氏がその感覚を狙っていたとしたら、それはそれですごいものがあると思う。
どんな残りかたにせよ、確実に心には残っていまもの。
でもこういうすっきりしない類の心への残りかたも、一つや二人は必要なのかもしれませんね。
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by satakenm
| 2008-09-18 08:48
| 日記